真理を求めて…、我が道をゆく。
先日エンジェルオラクルカードで、
「BEING(存在)」のカードが出たことを書きました。
次の日に、バガヴァット・ギータ―カードで「プルシャ(本質・実存)」が出ました。
ーすべてが生まれ戻る場所、広がり満ちる存在、真実を見極めるー
すごいシンクロニシティ…!
バガヴァット・ギータ―というのは、
バガヴァンの詩、すなわち「神の詩」と訳され、Yogaの経典でもある。
この経典には二つのテーマがあり、
一つはこの世界の真実について、もう一つは真実を理解するための方法としてのYogaについて。
初めて購入したエンジェルオラクルカードが素晴らしかったので、
他にはいらないと思っていたのですが、
欲に勝てず、バガヴァット・ギータ―カードを買ってしまいました。
時々、一日の終わり、夜の瞑想の前に引いています。
かつてYogaが今ほど一般的でなく〝怪しい?〟と思われていた30年ほど前に
Yogaを始めました。
その頃はキリスト教徒でなく、インドに魅かれていました。
Yogaを始めたきっかけも、精神的、肉体的に強くなりたいと思っていたからです。
キリスト教徒になった今では、
「オーム(AUM)]などの真言を唱えることに違和感、抵抗感が出てきましたが、
Yogaを行うことは私にとっては心身の調和を保つために必要なので、
自主練で細々と続けています。
そんな私は、この世の真実について知りたい気持ちが強いのでしょう。
キリスト教徒として歩みつつも、Yogaをやったり、瞑想したり、種類の違うオラクルカードをひいてみたり、スピリチュアルなことに魅かれたりと、横道に逸れたり…。
どれか一つ道を究めれば自ずと真理へと導かれるはずなのに、
何故か複数の道に魅かれてしまいます。
ホッピングするつもりはありませんが、
どれにも真理が隠されていると感じるのです。
そう思うとどの宗教であろうと、
究極のところは一つ〝創造主である神〟であることがわかります。
真実は一つですが、バガヴァット・ギータ―カードの解説文を読んでいると
アプローチが少し異なる感じがします。
また一枚ずつのカードに対応するYogaのポーズが載っていて、
同じアサナを行うにしても、今までと意識が変わります。
一つのことに集中し他を受け入れなくなりがちな私にとって、
真理の追究にあっては、ただ一つの道を進むというよりは
いくつかの道を体験しつつ、
アプローチの違いも感じながら究極の真理に至る、
という方法を取りたいのかもしれません。
(とはいいつつも、私はキリスト者であることには変わりありません)
このシンクロニシティも
そんなことを伝えるために起こったのかも?