〝謎のこわさ〟って?
pikarinと同じスクールバスのバス停の
Hちゃんと一緒に家に帰る時のことです。
H:「pikarinはお父さんとお母さんのどっちが怖い?」
P:「……………。」
突然質問され、返事をしません。
茶目っ気たっぷり、天真爛漫なHちゃんは
「ねぇ、どっち、どっち?」
と聞いてきます。
おもむろに
P:今見ているほうだよ。」(といってもその場にパパはいない)
母:「えっ、ママなの?パパだと思ってた。」
P:「ママはね、謎のこわさがあるんだよ。」
母:「何、それ?」
P:「うまく説明できないんだけどね。」
〝謎のこわさ〟って何でしょう?
夫はpikarinが意に添わぬことをすると、
制限をかけたり制裁をくわえたりします。
現状では
〇〇したらTVを見せない、△△を使えなくする、取り上げるなどです。
権力的、威圧的行為に出るといいましょうか。
私の場合はそういうことは夫に任せ、
pikarinが明らかに嘘をついている時など、
「神様に誓える?」と厳しい口調で問います。
「ママのことはごまかせても、神様は全部見てるよ。」
何だか「閻魔様が舌を抜くよ~」みたいな
子供だましのように思えるかもしれませんが、
pikarinは
「神様に誓えない。ごめんなさい。」
と正直に答えるのです。
16歳の今もです。
小さい頃から神様の存在を感じられるように、
日常の中に〝神と共にある生活〟を
意識させてきたからでしょうか。
朝夕の祈り、食前感謝の祈り、
小学校までは寝る前の祈りも。
日曜日の礼拝、家庭祭壇。
教会暦の祝祭(復活祭、クリスマスを中心に)をシュタイナー教育の季節のテーブルのしつらえとして飾るなど。
決して強制ではなく、
当たり前の日常として行っているので、
pikarinにとっては特別なことではありません。
生まれながらのクリスチャンのpikarinにとっては
自然なことなのでしょう。
神様は愛であり、
全てを受け入れ許して下さる優しさがあると同時に、
厳しく、怖い存在でもあると
pikarinは捉えているようです。
人智を超えた絶対的な存在です。
そこに繋がっている私(母)を感じるから
〝謎のこわさ〟という言葉が出てきたのかもしれません。
物質的なもの、変化する価値観ではなく、
神の真理から来るものを第一に考えられる自分でありたい。
だからいつも、神と繋がっていられるように
瞑想し、自分自身と対話する時間が
必要なのです。
それにしても
〝謎のこわさ〟と言われ
嬉しくなる私でした。
自分でも認識していることを、
pikarinが感じてくれているとわかったからか…。
自分が認められたような嬉しさなのかな。