yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

バイオグラフィーワーク(6)36-42歳 b両親との同居

私は2度目の結婚をしてから6回の引っ越しを経験した。

転勤などやむを得ない事情ではなく、自己都合である。

そのうち3回義父母と一緒に住んだ。

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ちょうどその頃義父が会社の経営の件で家を手放すことになり

精神的、肉体的に体調が思わしくなく高齢でもあったので

夫が心配して「一緒に住もうか?」と言い出した。

この時は都市計画された閑静な住宅街の一軒家を借りた。

緑が多く広々とした自然の中の公園も近くにあり

気持ちのよい街だった。

次第に義父の体調も良くなってきた。

ところが反対に夫の体調が悪くなった。

夜は眠れず、原因不明の背中の痛みで起き上がることができなかった。

義父母と私の3人で心配する毎日が続いた。

2世帯住宅用ではなかったので全てが一緒だった。

夫だけが2階で休んでいて

私たち3人で会話することが多くなった。

義父は昔の色恋話が延々と続く。

おそらく義母や夫より私が知っていることの方が多いと思う。

面白おかしい範疇ならよいのだが、私のことにも介入してくる。

とうとう胸が苦しくなり、今後このような話はしないことにしていただいた。

義母は娘ができた様に思うのか、ずっと話続けていた。

楽しい話ならよいのだが、愚痴や不満、他者の悪口ばかり。

その頃は右から左へ流すすべを知らず、

何か自分にできることはないかをあれこれ考えてしまっていた。

そのため、一週間ごとに具合が悪くなり寝込むようになってしまった。

マイナスエネルギーが強く、それを受け止め跳ね除けられずかなり辛かった。

そんな話を聞きながらも、

自分が相手のどんな言葉に嫌悪を感じるかとか

彼らが何を訴えたく、共感してもらいたいかなど冷静に分析していた。

そのうちだいぶ聞き流せるようにもなり

1か月毎、3か月毎など、寝込む頻度も少なくなっていった。

自分でもかなり耐性がついてきたと思った。

こんな状態なら仕事に出ればよいと思うかもしれないが、

義父母特に義父の考えは女の人が外に出て働くのを良しとしていなかった。

環境はよかったが家賃がかなり高く、夫が会社を辞めたこともあり

4人で引っ越すことにした。

 

今度もまた2世帯住宅用でない街から外れた一軒家だった。

引っ越しする毎にまず最初の私の楽しみは庭づくりだった。

日当たりのを考慮しながら苗を植える。

今回の家は日陰の植物が似合う庭だった。

足の悪い義母はなにもせず、私に絶えず話しかけてきた。

相変わらず悪口ばかりだった。

義母はかなりの神経質で

足が悪いと言っても掃除洗濯片付けはやらずにはいられないのだが、

作ることは嫌いだったので食事は私の担当だった。

食事を作っている時も横から話しかけてきた。

夫は小児喘息の発作が30年振りに再発し

「もっと空気のきれいな田舎に住もうか…。」などと言い出した。

決めたわけではなかったが、

候補地の視察と気分転換を兼ねて二人で行ってみる、と言ったら

「冗談じゃない。」と両親は怒り出し、家から出て行ってしまった。

残された私達は二人で一軒家に住む余裕がなかったので

アパートに引っ越した。

そして田舎暮らしの案はなくなった。

そのうちpikarinが生まれ、アパートが手狭になり

もう少し奥地の山が近いところに引っ越すことになった。

 

義父母は当時義兄夫婦の近くに住んでいたが

もともと義姉との関係が悪く、離れたいとのことだったので

再び夫が両親を呼び寄せた。

今度はpikarinを含め5人家族で住むことになった。

しかもリビングが広いとはいえ3LDKの一軒家。

これはなかなか大変だった。

片付いていないのが気に障る神経質な義母、

義母とひとまわり違う年老いた義父、

当時は発達障害とは判っていなかったが育てにくいpikarin。

相変わらず食事当番の私。

掃除洗濯好きの義母とはいえ、

私達の家だから全部お願いするわけにもいかない。

義母は子どもも好きではなく、pikarinとは遊ばず

絶えず私に話しかけるばかり。

どのくらい続いただろうか…。

ある日の朝、2階から降りてきたpikarinが階段下の義母の顔を見るなり

「ギャー!」と泣き叫んだ。

私は食事の支度中で声だけ聞き、何が起こったか分からず、

夫も家の中にいたものの現場を見ておらず。

「いきなり人の顔見て何なのよ!あなたたちどんな育て方をしているの!」

と激怒する義母。

この事件をきっかけに両親はまた出ていってしまった。

甘えたい年頃の2歳のpikarinは

一日中私に話しかける義母に私を取られるように感じたのか、

敏感さゆえ、私の気持ちを察知していたのか…。

 

それにしてもいろいろなことが起こる一家だった。

私の生まれ育った家とは全く違った。

両親を受け入れることは自分で自分に課した実験のようだった。

どこまで自分の両親のように愛せるか…。

よかったこともたくさんあった。

愚痴に対する耐性ができ、人の話を聞く忍耐力が備わった。

少しは家の中をきれいに保つことができるようになった。

(あれから10年以上経ち家の中は再び散らかりつつあるが…。)