yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

バイオグラフィーワーク(7)43-49歳 b子どもを通して障害を学ぶ。

ちょうど私の第7周期はpikarinが4~10歳だった。

発達障害と分かったのもこの時期で、

自然との触れ合いの中でできる限りいろんなことを一緒に体験した。

楽しかったと同時に、私達だけみんなと一緒にできない辛さもあった。

 

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シュタイナー幼稚園に入園し楽しく通えた日々。

シュタイナー学園に入学できず公立小に入学し大変だった日々。

再チャレンジしたシュタイナー学園で予想に反して起こってきた問題の数々。

発達障害の宣告を受け、学校に適応できず転校を繰り返した時期だった。

 

今度は自分のことではなくpikarinのことで試行錯誤だった。

1歳半検診の時、病院では何も言われなかったが

母親の直感で何か他の子と違うのを感じていた。

障害とは思っていなかったが

感覚の過敏さ、発達に何か問題があるように思った。

図書館でたどり着いたそれらしきキーワードは〝感覚統合〟というものだった。

この時とことん追求していればもっと早くに診断が下りたかもしれず

親の対応も違ったかもしれない。

何でも真剣に考えて囚われすぎる自分を変えようと思った時期でもあったので

看護師さん、保育士さんの意見に耳を傾け心配しないようにした。

公立小に入学した1学期のこと、

支援級経験のある担任から病院での発達検査と支援級入級を勧められた。

入学前にも発達検査は受けたことがあったのだが

その時は「あまり心配しなくて大丈夫ですよ。」くらいだった。

言葉通り心配しないようにしていたが

〝学校〟という集団生活が始まった途端、数々の問題が生じてきた。

障害の診断が下りたことについては

それを受け入れるのに抵抗のある親御さんも多くいる。

私の場合は「やっぱりね。早く言ってよ。」という感じだった。

抵抗は全くなかったが、

実際に起こってくる問題の原因がつかめず

どう対応してよいのか全く分からなかった。

Dr.は限られた時間内でこちらの質問に対するアドバイスをくれるが

毎日共に生活しているわけではないから細かいところはわからない。

とりあえず発達障害関係の本とシュタイナー治療教育の本を読んだ。

 

pikarinは知的遅れを伴う自閉スペクトラム症だった。

最初の頃は障害の特徴に始まり、どのような支援が必要かに集中した。

医療関係、教育関係、福祉関係など主催の講演会、研修会にも参加した。

pikarinは特に聴覚過敏だったこともあり、音楽療法も試した。

健常の子を目指したわけではなく、

何らか特性を引き出し得意なことや好きなことを見つけられたらそれでよかった。

だがそういうものも特別なかった。

また少しでも精神的安定が得られればと思った。

 

シュタイナー学園には2年間在籍した。

先生方は本当によくpikarinを感じ、観察し、

その時々に抱えている課題に向き合ってくれた。

おかげでシュタイナー思想を治療教育面からも少しだけ学ぶことができた。

ただ私立だったので親の負担も大きく

最後は親の呼び出し待機も多くなり

pikarinの状態に先生方も対応しきれなくなった。

 

公立に再び転校したが、

何事にも一生懸命になってしまう私は

支援級の先生方よりも知識を得ていたし

日々の実生活の体験から多くを学んでいた。

目の前の子どもを見ずに知識ばかりで理想的な支援教育を掲げていたり、

学校制度の枠に囚われて個々の支援ができない先生方と

対立してしまうこともしばしばあった。

 

いろいろなことを試行錯誤したが

pikarinの精神的な安定は一向に得られず

敬遠していた向精神薬を飲まざるを得ない状況まで問題が起こってきた。

子どもの成長と共に次から次へと

想像もつかないことが起こる。

怪我や事件にならなかったのが不思議なくらいである。

自分でどうにか対処できることでもなく

社会的な機関にも助けを求めたが

状況は変わらず八方ふさがりになっていた。

(個々の事例は「pikarin小学生」などの記事参照)

 

 

 

 

バイオグラフィーちょっと休憩、今朝の出来事。

このところ調子よく学校へ行くことができていたpikarinだが

今朝は久しぶりにお湯のみが割られた。

投げる前に何を投げるか選んでいるところがおかしい。

私の方は手が伸びるより先に、腕を掴むのに必死なのだが…。

 

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事の発端は信じられないほど些細なこと。

私が連絡帳を開いて、記入のためpikarinが体温を測り終えるのを待っていたこと。

せかす言葉は一切なくノートを開いていただけなのに

その行為だけでせかされていると感じたらしい。

その上悪いことに体温計がうまく作動せず34.5℃とか

何度測っても数値が変だった様子。

今度は体温計に当たり散らして怒鳴っている。

少し落ち着くまで離れた方がいいと思い、私は2階へ。

それが気に入らなかったらしく、わざわざ携帯に電話し呼び出された。

「ママのせいでこうなった!」と叫び続けているうちに出かける時間になり、

慌ててスクールバス会社に連絡しようとしたら

今度は「ダメ―!」と言って必死でそれを阻む。

電話機を取ろうとする私の髪を掴み、蹴飛ばすなどの暴力。

何としてもバス会社に連絡しないと迷惑がかかるのでこちらも必死。

なぜ「ダメ―!」なのかこちらの質問には答えられない。

訳がわからない。

そんなことを繰り返すこと30分。

さすがに16歳の少年を押さえるのは大変になってきた。

怪我をしないようにするのが精一杯。

(障害児の母親が骨折するなどの話はよくある)

 

ようやく落ち着いて話ができるようになった。

1.きっかけは私がノートを開いたことで、せかされる感じがした。

2.2階に行かずに傍にいてほしかった。

  (いつも落ち着かない時に傍にいると怒るくせに…)

3.自分ではこうなりたくないのに、ママのせいで出発できなくなった。

4.何とか行こうと思ったのでバス会社に電話してほしくなかった。

  (明らかに間に合わないのだが本人はそこが理解できない)

 

これら事の次第は分かったが、背景にもいろいろあることが改めてわかった。

1.同じバス停から乗る女の子が煩わしくてイライラする。だからバス停で待たないようにギリギリの時間に行きたい。

2.その子ともう一人の女の子がバスの中で言い争いになることが多く、それを見ているのが辛く我慢していた。

 

なるほど…。

p:「でも学校はみんなと友達になりたいから頑張って行く!」

  (これだけでもすごい進歩!)

p:「頑張って変わっているのにママは全然変わっていないみたいに言う!」

  (そんなつもりはないけどそう聞こえるらしい。かといって褒めるとわざとらしいと言われる)

p:「ボク、頭では分かっているのにできない。その気持ちを誰もわかってくれないから寂しい…。」

  「びぇ~。」

 

少し落ち着き泣き止んだ。

話してくれたことで、辛いのに我慢していたとわかったこと、

学校へ行こうと頑張っていること、

合わない子がいるのは誰でもあること、大人でも、

これからどうしたら気持ちよくいられるか一緒に考えてみよう…

ということで、収まりがついた。

 

障害のある子どもは表面の言動だけを見ると

一般にはとても理解できないことだらけだが、

一つ一つ理由を探っていくと見えてくることがある。

ただ会話ができず思いを伝えられなかったり、

精神遅滞のために感情コントロールもできないから

原因究明に至る道のりがスムーズでないと

極めて困難な状況になってしまう。

pikarinの苦しい胸の内は、かつての私自身でもある。

バイオグラフィーを通して共通点が浮かび上がってくるとともに、

私自身も親同様のことを無意識に行い、同じ思いをさせてしまっていることもわかる。

 

学校へは車で送っていくことになった。

朝からドッと疲れたが

これでも少しずつ確実に成長している。

お互いに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バイオグラフィーワーク(7)43-49歳 aシュタイナー教育とキリスト者共同体

大学生の頃シュタイナー思想に興味があって何冊か本を手に取った。

「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」「神智学」

「神秘学概論」「自由の哲学」の四大主著であるが

どれも頭の上層を流れていくだけでとても理解できなかった。

 

妊娠時にゆったり本でも読んで過ごそうと思い、

今回教育的アプローチなら理解できるかもしれないと思った。

そんなわけでシュタイナー教育関係の本をたくさん読んだ。

当然のことながらpikarinをシュタイナー幼稚園に入れたいと思うようになった。

引っ越しもうまく運んで巡り合えたのはシュタイナーこども園だった。

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シュタイナー教育は人間の本質を

霊学的な観点から捉え、それに即した成長を促す教育である。

根底にあるのはシュタイナー思想だ。

だからシュタイナー幼稚園に入れて先生にお任せ…というわけにはいかない。

親が人間の本質の構成要素(物質体、エーテル体、アストラル体、自我)を理解し、

子どもを観察し、

7年周期でその時期にふさわしい保護と成長を促すための働きかけが

必要になってくる。

初めてシュタイナー教育に触れる私には

なかなか理解が及ばないこともあったが、先生や先輩保護者の導きが心強かった。

 

0~7歳は子どもにふさわしい環境を整え、

模倣の時期なので周りの大人が模範となることが大切だった。

子どもが毎日自分の周りに何を見ているのか。

8~14歳は親や教師などの権威が必要な時期だった。

子どもが心から尊敬できるような大人の存在。

親に求められるものは多く、理想には程遠かったが、

シュタイナー教育を求めてくる親御さんたちは

自分の意志を持ち、お互いに支え、高め合いたい人が多かった。

子どもの教育に熱心だったので

親同士でも不適切なことがあれば厳しかったし、

何かあった時はお互いに協力し合った。

出産でお弁当が作れない親のために

その子のお弁当を交代で毎日作ってあげたり、子どもを預け合ったり、

幼稚園や学校を整えるのに

親がみんなで床張りや壁塗りをしたり

丸太を切って遊び道具を作ったり、手仕事したり…。

教会よりもずっと協力し合っている共同体だなぁと感じたほどだった。

 

保護者会は月に一度3時間くらいかけて行われる。

一人ずつ親が子どもの様子を話し、

先生も一人一人の幼稚園や学校での様子を返してくれる。

その子が今向き合っている課題、クラス全体の様子、

この時期のテーマや大切なことなど。

自分の子どもだけでなくすべての子どもが愛おしく、

共に成長を喜べる有意義な時間だった。

子どもだけでなく親の学びの時間もあった。

子どもの12感覚のこと、4つの気質のこと、音や色の体験、

7周期で見るバイオグラフィー、オイリュトミー、

シュタイナー著作の読書会など。

 

またシュタイナー教育では「子どものためのお祈りの言葉」があり

子どもが小さいうちは大人が毎日唱える。

特定の宗教というわけではなく、

本来人間に備わっている宗教的感情を呼び覚ますためである。

自然界の存在(天体、鉱物、植物、動物)はすべて神的な力の現れであり、

人間も魂だけでなく肉体の隅々まで神的な力が現れている。

お祈りの言葉を通して

もともと子どもの内に抱えている霊的な真理を思い出し、

神的な力への感謝の気持ちが自ずと現れるように。

そんなことからシュタイナー教育を通して、キリスト者共同体にも出会った。

キリスト者共同体」はドイツ中心に広まった宗教改新運動であり、

シュタイナー思想を基盤とし狭い教義にとらわれず

キリスト存在を自然、地球規模で捉えている。

私は霊的観点から見たこの教派をもっと学びたく

またシュタイナー教育に関わる親御さんたちにも知ってもらいたかったので

pikarin発案で司祭を自宅に招き、聖書を学ぶ家庭集会や日曜学校を始めた。

宗教とは教えるものではなく、

日々の生活の中で神への感謝が自然と生まれるものだから

祝祭を通して一年の四季の巡りの中での教会行事と子どものための礼拝を

どうしてもやりたかったのである。

別の教派に所属する私が行うのも道理からすればおかしな話だが、

神様の視点から見ればおかしくないはず…と

エネルギー全開、思いを実現させた。

この活動はpikarinがシュタイナー学園を去るまで6年ほど続けた。

クリスマスなどは親子50名以上の参加があった。

(我が所属教会は数人の子どもだけなのに…。)

私たちが去った後も他の親御さんたちが

引き続き活動を支えて下さったことに深い感慨を覚える。

感謝。

 

 

 

 

 

バイオグラフィーワーク(6)36-42歳 c出産時の思い

pikarinを出産したのは39歳の時だった。

当時は夫と二人でアパート住まいで

出産をどこでどのようにするかいろいろと考えた。

その頃夫は転職続きで一つの会社に安定せず、出産費用も心配だった。

pikarinの不安感はこのような妊娠時の影響もあったかもしれない。

 

私も初めてのことで、住み慣れた土地でもなく、産婦人科医院も知らないので

最初は比較的近くの総合病院の産婦人科で定期検診を受けていた。

いろいろと出産・子育てについて調べていくうちに

自然育児に興味を持つようになった。

本来出産は病気ではないし、昔は自宅で出産していた。

私は入院の経験がなかったし、病院には何となく抵抗があった。

妊娠7カ月に病棟の部屋を案内された時に、

何か違う…と思ってしまった。

かねてから助産院についても調べていたので

住んでいる場所から自力で行ける助産院を訪ねてみた。

身近な友人で助産院で出産した人はなく、未知の世界だった。

温熱療法、食事と母乳の関係、歩くことの大切さ、Oリングテストなど

人間が本来持っている自然治癒力を強く信じている私には

どれも興味深い話ばかりだった。

多少の不安はあったが自分を信じて助産院に切り替えることにした。

 

出産後は自宅に戻ることも考えたが

初産でしかも高齢出産でもあったので

自分自身の身体がどうなるか想像できず心配があった。

そこで世間に倣い実家にお世話になることにした。

 

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幸い出産は超安産だった。

出産後身体を整えてもらい、12畳くらいの畳の部屋に

pikarinと二人、布団に横たわっている。

いきなり二人きり。

突然目の前に現れた生き物。

泣き出すとどうしてよいかわからない。

抱き方すらよくわからない。

おっぱいも布おむつの交換もおぼつかない。

もちろん助産婦さんが丁寧に教えてくれたのだが

夜中に呼び出し起こしてしまう始末だった。

食事も初めは薬草茶のみ、その後は助産婦さんのお母様が作るお粥をいただいた。

その助産院は一軒家で、毎日少しだけシャッターの下から外の光が入る。

外の風の音、木々の葉が触れ合う音、鳥の鳴き声…。

畳に敷かれた布団がどこか懐かしさを感じさせた。

静かに横たわっているだけの5日間。

よその家なのに落ち着ける場所。

今まで味わったことのない感覚だった。

 

4月中旬まだ外は肌寒かった。

実家では私とpikarinのためのスペースを用意してくれた。

新生児には光が眩しいので窓は全開せずあえて薄暗くしてもらった。

食事も野菜、海藻、ご飯中心の質素なものでよかったのだが

母は力がつくようなものを出してくれた。

入浴・洗髪も母体の身体的回復のためには30日ほど控え

身体を拭くにとどめた方がよいのだが、

常識的な発想では衛生面を優先するので、母には強く勧められた。

初めは2週間ほどの滞在を考えていたが

私の自然育児方法を受け入れ難い感じを受けたのか、

pikarinが絶えず目を覚まし泣き続けるせいなのか、

最初の3日間くらいで息苦しくなってきた。

リラックスできないのである。

ゆったりとした気分になれず、

pikarinと私が申し訳なく居させてもらっている様に感じてしまった。

何でこんなに苦しいんだろう…。

実家だというのに…。

私はこんな風に感じる自分のことがショックだった。

一般的に娘なら里帰りしてのびのびできるのだろう。

そう思っていた。

なのに私は実家にいるのが息苦しい。

幼少の頃から感じていた窮屈さ、束縛感は

自己啓発セミナーやこれまでの自分の努力で突破したはずではなかったのか…。

この年になってもまだ過去の思いに囚われているのか…?

早く自分の家に帰りたくなった。

狭くても自分自身でいられる場所、自分の思う通りにできる場所に。

 

せっかく準備し滞在させてくれた両親には申し訳なかったが

5日間ほどで帰宅することにした。

 

私、未だ変わることができていないんだ…。

この時の気づきは本当にショックだった。

実家が苦しいなんて…。涙が出てきた。

 

 

 

バイオグラフィーワーク(6)36-42歳 b両親との同居

私は2度目の結婚をしてから6回の引っ越しを経験した。

転勤などやむを得ない事情ではなく、自己都合である。

そのうち3回義父母と一緒に住んだ。

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ちょうどその頃義父が会社の経営の件で家を手放すことになり

精神的、肉体的に体調が思わしくなく高齢でもあったので

夫が心配して「一緒に住もうか?」と言い出した。

この時は都市計画された閑静な住宅街の一軒家を借りた。

緑が多く広々とした自然の中の公園も近くにあり

気持ちのよい街だった。

次第に義父の体調も良くなってきた。

ところが反対に夫の体調が悪くなった。

夜は眠れず、原因不明の背中の痛みで起き上がることができなかった。

義父母と私の3人で心配する毎日が続いた。

2世帯住宅用ではなかったので全てが一緒だった。

夫だけが2階で休んでいて

私たち3人で会話することが多くなった。

義父は昔の色恋話が延々と続く。

おそらく義母や夫より私が知っていることの方が多いと思う。

面白おかしい範疇ならよいのだが、私のことにも介入してくる。

とうとう胸が苦しくなり、今後このような話はしないことにしていただいた。

義母は娘ができた様に思うのか、ずっと話続けていた。

楽しい話ならよいのだが、愚痴や不満、他者の悪口ばかり。

その頃は右から左へ流すすべを知らず、

何か自分にできることはないかをあれこれ考えてしまっていた。

そのため、一週間ごとに具合が悪くなり寝込むようになってしまった。

マイナスエネルギーが強く、それを受け止め跳ね除けられずかなり辛かった。

そんな話を聞きながらも、

自分が相手のどんな言葉に嫌悪を感じるかとか

彼らが何を訴えたく、共感してもらいたいかなど冷静に分析していた。

そのうちだいぶ聞き流せるようにもなり

1か月毎、3か月毎など、寝込む頻度も少なくなっていった。

自分でもかなり耐性がついてきたと思った。

こんな状態なら仕事に出ればよいと思うかもしれないが、

義父母特に義父の考えは女の人が外に出て働くのを良しとしていなかった。

環境はよかったが家賃がかなり高く、夫が会社を辞めたこともあり

4人で引っ越すことにした。

 

今度もまた2世帯住宅用でない街から外れた一軒家だった。

引っ越しする毎にまず最初の私の楽しみは庭づくりだった。

日当たりのを考慮しながら苗を植える。

今回の家は日陰の植物が似合う庭だった。

足の悪い義母はなにもせず、私に絶えず話しかけてきた。

相変わらず悪口ばかりだった。

義母はかなりの神経質で

足が悪いと言っても掃除洗濯片付けはやらずにはいられないのだが、

作ることは嫌いだったので食事は私の担当だった。

食事を作っている時も横から話しかけてきた。

夫は小児喘息の発作が30年振りに再発し

「もっと空気のきれいな田舎に住もうか…。」などと言い出した。

決めたわけではなかったが、

候補地の視察と気分転換を兼ねて二人で行ってみる、と言ったら

「冗談じゃない。」と両親は怒り出し、家から出て行ってしまった。

残された私達は二人で一軒家に住む余裕がなかったので

アパートに引っ越した。

そして田舎暮らしの案はなくなった。

そのうちpikarinが生まれ、アパートが手狭になり

もう少し奥地の山が近いところに引っ越すことになった。

 

義父母は当時義兄夫婦の近くに住んでいたが

もともと義姉との関係が悪く、離れたいとのことだったので

再び夫が両親を呼び寄せた。

今度はpikarinを含め5人家族で住むことになった。

しかもリビングが広いとはいえ3LDKの一軒家。

これはなかなか大変だった。

片付いていないのが気に障る神経質な義母、

義母とひとまわり違う年老いた義父、

当時は発達障害とは判っていなかったが育てにくいpikarin。

相変わらず食事当番の私。

掃除洗濯好きの義母とはいえ、

私達の家だから全部お願いするわけにもいかない。

義母は子どもも好きではなく、pikarinとは遊ばず

絶えず私に話しかけるばかり。

どのくらい続いただろうか…。

ある日の朝、2階から降りてきたpikarinが階段下の義母の顔を見るなり

「ギャー!」と泣き叫んだ。

私は食事の支度中で声だけ聞き、何が起こったか分からず、

夫も家の中にいたものの現場を見ておらず。

「いきなり人の顔見て何なのよ!あなたたちどんな育て方をしているの!」

と激怒する義母。

この事件をきっかけに両親はまた出ていってしまった。

甘えたい年頃の2歳のpikarinは

一日中私に話しかける義母に私を取られるように感じたのか、

敏感さゆえ、私の気持ちを察知していたのか…。

 

それにしてもいろいろなことが起こる一家だった。

私の生まれ育った家とは全く違った。

両親を受け入れることは自分で自分に課した実験のようだった。

どこまで自分の両親のように愛せるか…。

よかったこともたくさんあった。

愚痴に対する耐性ができ、人の話を聞く忍耐力が備わった。

少しは家の中をきれいに保つことができるようになった。

(あれから10年以上経ち家の中は再び散らかりつつあるが…。)

 

 

 

 

 

バイオグラフィーワーク(6)36-42歳 a受洗、新たに生まれる。

ようやく〝この人〟と思える人に出会った。

決め手となったのは

「共に成長していきたい。」という言葉だった。

特に個性的なわけでもなく一見普通のサラリーマンだったが

物の見方や発想が面白く、質問すると新しい発見がたくさんあった。

今までこんな人には出会ったことがなく、

二人で世界を眺めれば360度の視点でいろいろな発想ができるし

自分の世界も広がると思った。

 

お金もなかったので、せめて心に残る結婚式と思い

歴史的建造物に指定されている由緒ある教会で行うことにした。

当時の司祭様は厳しく、1年間は礼拝に通うように言われた。

名の知れた教会だったので結婚希望のカップルは何組もいて

日曜日の「夕の礼拝」に集った。

顔なじみとなって結婚式が終わると姿が見えなくなる、の繰り返しだった。

そんな中彼が「昼間の礼拝に出よう。」と言い出した。

格調高い礼拝堂の前方にはとても行かれず

祝福を受けるのでさえ遠慮した。

一番後ろの隅に座ることが多かった。

ある日執事志願の青年と信徒の女性の聖婚式に参列させていただいた。

本物の教会での結婚式を目の当たりにしとても感動した。

彼はポソッと「洗礼を受けようかな。」と言い出した。

私はそこまでの覚悟はなく浮ついた気分で教会に通っていたのだが、

一人取り残されるような気がして、私も一緒に受けることにした。

このように大事なことは今までは考えに考えて自分で決断してきたが

この時は何となく流れるままに成り行きで決めてしまった。

司祭と相談する時に、結婚式は〇〇で、洗礼は△△で…などと

こちらのスケジュールを勝手に口走ってしまったら

「神様が決めることを自分で決めるでない。」とお叱りを受けた。

私たちの洗礼日は「主イエス洗礼の日」だった。

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受洗後は二人で毎週のように通った。

彼は「聖職になろうかな。」と言うほど感化されたようだ。

(転籍してから彼はほとんど教会に行かなくなり今に至っているが。)

毎週教会には多くの信徒が訪れ、朝から夕方まで残っている。

失礼な言い方だが、よほど暇なのか他に行く所がないのかと

当時は不思議に思っていた。

教会とは〝神の家族〟であり

受洗とは神の家族のうちに新たに生まれることを意味する。

私たちは新しい世界に右も左もわからない赤ちゃんとして生まれたのである。

その頃の私は時間的な余裕があったので

神様のことを知るために

日曜日の礼拝はもちろん、他の礼拝、聖書の学び、

婦人会、聖歌隊、礼拝音楽研修会、オルターギルド研修会、

刺繍の会、修道体験などいろいろな学びに参加した。

新入社員が会社のことを知るために努力するのと

同じような感覚で臨んでいたと思う。

知らない世界を知るのはいつも楽しい。

それに西洋文化を理解するにはキリスト教知ることが必須だと昔から思っていたから

尚のこと幅が広がり楽しかった。

また、これまで模範となる指導者に憧れ追い求めていたが

人間の中に全てのそれを求めるのが難しいことにも気づいた。

キリストこそ〝神の生きたみ言葉〟であり、

私にとっての模範であり、神様へと導いてくれる人なんだ

ということにも気づくことができた。

以来指導者を求めなくてよくなったから、この気づきも救いとなった。

何か問題が起こった時は

神様を基準に、神様の視点に立ち返ればよいことも分かった。

司祭様もいろいろなタイプがあるが

私が最初に出会った司祭は〝霊性〟を大切にされる方だった。

この点で私は大いに魅かれた。

幼少の頃の印象とは全く違う捉え方でキリスト教への関心が高まると共に、

自らのあり方を見直すこととなった。

礼拝の祈祷書にある言葉の一つ一つに

これまでの人生がどれほど傲慢でおごり高ぶっていたかを知らされた。

かつてカシミールの山で自分の穢れを認識させられたが、

ようやく神様の前で本当の自分の姿をさらけ出し

懺悔し、新たに生かされるという歩みを始めることとなった。

そして、日々、一週間毎、一年毎の教会の暦の中で

キリストと共に歩むことの喜びを知ることとなったのである。

 

 

 

 

バイオグラフィーワーク(5)29-35歳  b暗中模索の時代

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Yogaでどうにか支えられたものの、

この頃の私は自分がよく分からなくなっていた。

再挑戦と思い服飾を学んだはずが、

いざ就職となると初心に戻っての新入社員としての心構えは

大学卒業後のそれとは違っていた。

一度バブル期の企業の中で甘い蜜を吸ってしまうと

謙虚な気持ちで臨むのが難しくなった。

 

服飾の専門学校を終了し

学校に求人がきていたオートクチュールのアトリエで

アルバイトをすることにした。

狭いマンションの一室に恐る恐る一歩踏み入れた途端

やっぱり帰ろうかという気持ちになった。

出てきた男性デザイナーの先生は

軽いノリで、言葉遣いは女性っぽく、

服装は奇抜、幼少期は芸能界育ちという

何とも形容しがたい個性的な人だった。

ところが不思議とお客様は財閥や大企業の重役のご婦人方で

全く宣伝もしていないのに紹介で来られるのだった。

毎日その一室で、先生ともう一人私より年下のアルバイトの女の子の三人。

忙しい時は先生の奥様が手伝いに来る。

女の子は手先がとても器用で手縫いの仕上げが本当に美しかった。

私は今まで周囲から器用だと言われ、自分でもそうだと思っていた。

この女の子を前にすると、練習してもヘタクソだった。

多分アイデアやセンスでカバーしていたのだと思う。

器用でないことは私をとても落ち込ませたし、自信をなくさせた。

先生は私のことをプライベートに至るまでいろいろな角度から聞いてきた。

衝撃的な暗い過去を持つその女の子は

常に悲観的、厭世的な物の見方をしていて

私と先生の話を聞きながら、

グサッと暗く突き刺すようなことを言う。

何だかこの空間も心地よいものではなかったが他に行く先もなかったし、

先生のデザインセンス、アイデアの素晴らしさに魅かれていた。

ボタンに刺繍やビーズを施したり、

出来上がった洋服はお客様を引き立たせ美しかった。

先生とのコミュニケーションにも慣れ

年下の女の子ともどうにかやっていけそうになった矢先、

ある日突然女の子が来なくなった。

私のそれまでの常識では全く考えられない事だったが

以前もあったのか

「そんなもんよ。」と先生は気にも留めていなかった。

手先の器用な彼女がいないことは大きな痛手だった。

私のプレッシャーは大きくなったが、

負けず嫌いの昔の私は出てこなかった。

自分でもよくわからないが

この時期、どんなにけなされても、怒られても、

叱咤激励されても力が湧いてこなかったのだ。

自身が持てず、落ち込むばかりだった。

「服をたくさん作って早くあなたもクチュールをやりなさいよ。」

としごかれるのだが、

私の中に〝私〟が存在していない感じだった。

 

この頃自己啓発セミナーにも参加した。

お金もなかったので躊躇していたが

めったに自己主張をしない妹からの強い勧めで受けることにした。

そこでは究極的に追い詰められる感覚、突破しなければならない感覚、

喜びと感動の両方を味わった。

今思うと、あれは何だったのだろう…。

自分の中にある可能性、限界を超えていく力、

自分の本質を見出すカリキュラムだったのかなぁ…と。

確かに確実に得たものはあった。

今も宝物として私の中にある。

自己啓発セミナーでは表面の薄皮を剥ぐことはできたが、

ここ20年の歩みの中でもっと自分を深く深く掘り下げられ

培ってきたんだなぁ…と最近つくづく思う。

 

自分を見失い、確立できない私は

誰かに依存したい気持ちが強くなった。

結婚するつもりでいた相手から突然フラれたことも影響した。

生涯を共にするパートナーがほしいと思うようになり

同じような価値観を求めいろいろな人と付き合うことにした。

外見、職業、地位…なるべくそういうものに目を向けずに

その人自身を見ようと思った。