yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

バイオグラフィーワーク(3)15-21歳 d新たな目標に向かって

高校から気持ちを切り替えて勉強し

大学は絶対に外部に出ると決めた。

S女子校は大学付属だったので

外部受験をすることは狭き門だった。

何度も教師と面接がありその度に志望者は脱落し

志を共にした友達の多くはそのまま大学または短大へ進学した。

外部を受験するには大学または短大に無い学部でないと許可されない。

私は考古学や心理学に興味があり、両親に相談した。

 

母は自分の経験から「大学で学ぶ=仕事(収入)につなげる」という考えだったので

「研究してどうするの?」と思っていたようだ。

特に古代エジプトに興味があるというと、

「昔の人が使った物やミイラや骨とか気持ち悪いじゃない。」と言われた。

父は「女性研究者=瓶底メガネで独身、Old Miss」のイメージがあったようで

よく思っていない様子がうかがわれた。

そんな偏見に一喜一憂してしまう私は

自分を貫くほど意志が固くなかった。


所属していた美術部の先輩で生徒会委員だった人に

一人だけ美大に進学したした人がいた。

美大は勉強ができない人がいくというイメージを払拭してくれた。

ただ卒業後は美術教師か作家の道しか選択肢がないという狭い考えしかなかった。

教師嫌いの私は教師になりたいとは絶対に思わなかった。

調べるうちにデザイン科があることを知り

就職先にも一流企業の名前がいくつも載っていた。

どんなことをするんだろう?

デザインの仕事にますます興味が湧き、

これなら確実に外部を受験できるし、両親を説得できると思った。

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高校2年になる春休みから美大受験予備校に通い始めた。

毎日学校帰り3時間のデッサンに加え

長期休暇の講習会は1日6時間のデッサンだった。

その上週1回デザインの課題がある。

当然学校の課題は疎かになるがそれでも成績はキープし続けた。

隙あらば外部受験を諦めるよう説得させられてしまうからである。

英語と国語は美大の受験科目にあったが

一般大学とは比較にならないので楽勝だった。

友達に頭がよく、デッサン、デザイン共に優秀で全てそろっている人がいた。

私が中学受験を諦めた学校の子だった。

彼女とはいつも予備校で1,2番を争う良きライバルだったし、

仲も良かったので合格発表も一緒に見に行った。

どちらかが不合格だったら無言で抱き合う約束を事前にして。

面白いことに彼女が合格した科は私が落ち、

私が合格した科は彼女が不合格だった。

おかげで何度も無言で抱き合うことになり

手を取り喜び合ったのは1回だけだった。

結局大学は別々になったが、彼女のおかげで頑張り通せ合格できたと思う。

 

6年間の我慢から解放され、清々しい晴れやかな気分を味わった。

これから新しい未知の世界が始まる…

そんなワクワクした気分になった。

 

美大はそれまでの厳格で窮屈な学校と違い

あまりに自由な雰囲気で、また戸惑うことになった。

その上周囲は非常に個性的で、一人一人意志主張が感じられた。

同じ学年でもほとんどが年上で、中には3、4歳上の人もいたし、

地方から出てきて独り暮らしも多かった。

浪人時代が長く世の中のことをいろいろ知っているように思えた。

自分が今まで守られた空間の中にいて

何も知らないことを知らされた。

決まった教室もなく、居場所にも困ったし、

友達と何を話してよいかも考えてしまった。

友達同士の会話を聞いていると

話題はアート関係(当時は特に現代アート)、音楽(特に洋楽)、映画、

男子学生は加えて車とバイク。

美大性は全てにおいてマニアックなものを好んでいて

それを先取りして話題にするのがカッコいいと思っていたようだ。

私は先取りなんてとてもできなかったが

当時の情報誌「ぴあ」をくまなくチェックして

一人で自主上映ヨーロッパ映画やギャラリー、現代アート美術展などを見て回った。

バイクについては難しかったが

車については中古車雑誌「Car Sensor」でたいていの車種を識別できるようにした。

いずれ広告デザイン関係の仕事に就くなら

最新情報の収集は必須で何でも知っておく必要があり

学校の勉強とは違う未知の分野を知ることは

とても楽しかった。