yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

幼児洗礼を受けたこと

pikarinが幼児洗礼を受けたおはなし~

 

キリスト教の中でも私の所属する聖公会という宗派には幼児洗礼があります。

幼児洗礼というのは

キリスト者の両親が幼児・小児への洗礼を施すことで、

親の信仰と願いによって行われます。

子ども自らの自覚的な信仰告白を伴うものでないとのことから、

認めていないプロテスタントの教派もあります。

私と主人はpikarinが1歳になる少し前に幼児洗礼を受けさせました。

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今までの人生で、私は〝得たいものは努力して得る〟という考えのもと、

やりたいことを頑張って生きてきました。

でも頑張っても得られないものがありました。

それは、生まれながらにしてのクリスチャン。

幼児洗礼の恵みを与えられる、というものです。

 

私は結婚を機にキリスト者になりましたが、

初めの頃、教会の人達はとても不思議に映りました。

日曜日の朝から夕方までずっと教会にいるんです。礼拝が終わっても、です。

他にやることないのかな~、よっぽど暇なのかな~と失礼なことを思っていました。

中でも幼少期に洗礼を受けたクリスチャンホームの中で育った人達は、

何かが一般の人と違っていました。

言葉では言い表せない不思議な雰囲気を醸し出しているように見えたのです。

自然体というか、この世の流れとは少し違った何か。

 

う~~~ん、表現が見当たらない。

 

私のように成人してキリスト者になった者とは違うのです。

何か努力して神様のことを知ろうとしたり、奉仕するあり方と違って

あたり前のような感じというのでしょうか。

そんな雰囲気に、今更得たくても得られない憧れのようなものがありました。

だからpikarinには、

神様の救いの中にある恵み、教会という神の家族の中で成長してほしい

と強く思ったのです。

 

折に触れていつも教会は彼にとって身近なものでありました。

信徒の方々は、生まれる前はお腹のpikarinに話しかけてくれ、

幼少期には、私には礼拝参加を勧め、その間遊んだりお世話をしてくれました。

学童期には1時間半の礼拝も騒ぐことなく、大人と共に参列できていたのも

不思議なくらいです。(自閉症の子なのに…です)

もちろん乗り気でない時は2階の母子室にいたり、

教会と同じ敷地の幼稚園の遊具で遊んでいたりもしました。

生まれる前からずっと成長を見守ってくれていた信徒の方々なので、

障害がわかってからも受け入れやすい環境にあったのは幸せなことでした。

私にとっても安らげる場でした。

 

最近は思春期もあって礼拝に行くことは少なくなりましたが、

時折ふらっと自転車で教会に行き、聖歌隊の練習をのぞいてみたり、

教会で飼っているウサギさんとお話したりしています。

居場所のない彼にとっては心が落ち着く場なのかもしれません。

そう思うとホッとします。

 

pikarinが幼稚園の頃だったか、ある時礼拝中にいきなり

「今ね、死んでお空に行った人たちがみんなここに集まって来ているんだよ。」

と言った時には驚きました。

 

見えるのだろうか…?

 

礼拝の式文の中には〝天の全会衆とともに〟という言葉が入っています。

大人は言葉として頭でそれを理解しますが、

幼いpikarinは直感で感じ取っていたのでしょう。

彼のその感じる力はすごいなと思いました。

礼拝がずっと豊かになります。

 

そのすばらしさに、もっとみんなが気づけますように。