yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

白という色

あたり前のことですが、

赤ちゃんが生まれてしばらくの間、女性は赤ちゃんのお世話が中心となります。

おむつを取り替えたり、おっぱいをあげたり、抱っこしたり…。

そしてボーっとしている時間もあります。

 

pikarinが生まれるまでは、常に自分で何かしているのが好きだったので、

自分をわきに置いて他者中心に過ごすことなどありませんでした。

 

私は助産院で出産をしたことから、自然な育児をしたいと思っていました。

おっぱいで育てるために食事の内容を改善したり、

(おっぱいの味って食べ物で変化するんです!)

肌に優しいオーガニックコットンの肌着を着せたり、

おむつを布にしたり…。

何かと大変なこともありました。

もちろん大変なことは承知でしたが、

赤ちゃんの感覚を養うことを大切にしたいと思っていたのです。

 

そんな中、毎日たくさんの洗濯物を眺めながら

ボーっとしていた時のことを思い出します。

 

pikarinはイースターの頃に生まれました。

春の訪れ、自然界でも新しい生命が芽吹いてゆく時です。

やわらかな春の日差しから初夏の強い日差しへと変わっていく。

新緑のグリーンが映える中、真っ白な赤ちゃんの洗濯物が風にゆれています。

自然と戯れてお話ししているようです。

おむつも衣類も柄物ではなかったので、ほとんど白、白、白。

 

白ってきれいだな~。

 

何にも染まっていない純粋さ、清らかさ、崇高さ…

そんなことを感じていました。

f:id:hoshinopikarin:20200517135146j:plain

想えば昔子供のころ、私のイメージは〝白〟と言われていました。

肌が白かったせいだと思います。

〝色白は七難隠す〟と周囲の大人たちに言われましたが、嬉しくありませんでした。

幼少のころから赤面恐怖症的なところがあり、

人前に立つと赤くなってしまったり、

体育の持久走で走ると、太ももに毛細血管が出てきて

皮膚に赤や橙、青、紫などの色が浮き出てきます。

同級生から「なんでそんな色になるの?」「きもちわるい。」と言われ、

色が白いことがとてもイヤでした。

 

思春期以降になると、

純粋、素朴、真面目、清楚なイメージを嫌い、

ちょっとミステリアスだったり、不良っぽい悪いイメージに憧れました。

だからますます〝白いイメージだね〟と言われることがイヤでした。

そして決して〝紫のイメージだね〟などとは言われなかったのです。

「白=純粋・清楚」などの言葉から発展して

正直、真面目、面白くない、正統派…などのイメージまで

結びつけて捉えてしまったようです。

 

大人になっても「あなたは真面目すぎて面白くない。」と

親から言われ続けていたので、克服すべく努力はしたものの、

本質というのは変わるものではありません。

ある時から開き直って〝正直、真面目のどこが悪い!〟と

そういう自分を受け入れることにしました。

 

そんな若い頃があった私ですが、

こうしておむつや肌着が並んで干してあるのを見ていると、

自分も白を身に纏いたくなりました。

その頃は中身の汚さを白で包み隠したかったのかもしれません。

むしろ柄物や色物を着ているのが違和感さえ感じるくらいに。

その後再び他の色も着るようになりましたが、

やはり白を身に纏うと心地よく清らかな気持ちになります。

今は〝包み隠す〟というよりは、

〝本当の私はこうありたい〟という願いからそう思うのかもしれません。

 

キリスト教徒でないとなじみがないと思いますが、

教会では白、赤、紫、緑、黒などの祭色が使われ、

それぞれに意味があり、教会暦や司祭の祭服に用いられています。

「白」は神の栄光、喜び、信仰を表し、復活節、降誕節などに用いられます。

 

そんなこともあってか、

今ではいつも白のイメージでありたいと願う私です。