白という色
あたり前のことですが、
赤ちゃんが生まれてしばらくの間、女性は赤ちゃんのお世話が中心となります。
おむつを取り替えたり、おっぱいをあげたり、抱っこしたり…。
そしてボーっとしている時間もあります。
pikarinが生まれるまでは、常に自分で何かしているのが好きだったので、
自分をわきに置いて他者中心に過ごすことなどありませんでした。
私は助産院で出産をしたことから、自然な育児をしたいと思っていました。
おっぱいで育てるために食事の内容を改善したり、
(おっぱいの味って食べ物で変化するんです!)
肌に優しいオーガニックコットンの肌着を着せたり、
おむつを布にしたり…。
何かと大変なこともありました。
もちろん大変なことは承知でしたが、
赤ちゃんの感覚を養うことを大切にしたいと思っていたのです。
そんな中、毎日たくさんの洗濯物を眺めながら
ボーっとしていた時のことを思い出します。
pikarinはイースターの頃に生まれました。
春の訪れ、自然界でも新しい生命が芽吹いてゆく時です。
やわらかな春の日差しから初夏の強い日差しへと変わっていく。
新緑のグリーンが映える中、真っ白な赤ちゃんの洗濯物が風にゆれています。
自然と戯れてお話ししているようです。
おむつも衣類も柄物ではなかったので、ほとんど白、白、白。
白ってきれいだな~。
何にも染まっていない純粋さ、清らかさ、崇高さ…
そんなことを感じていました。
想えば昔子供のころ、私のイメージは〝白〟と言われていました。
肌が白かったせいだと思います。
〝色白は七難隠す〟と周囲の大人たちに言われましたが、嬉しくありませんでした。
幼少のころから赤面恐怖症的なところがあり、
人前に立つと赤くなってしまったり、
体育の持久走で走ると、太ももに毛細血管が出てきて
皮膚に赤や橙、青、紫などの色が浮き出てきます。
同級生から「なんでそんな色になるの?」「きもちわるい。」と言われ、
色が白いことがとてもイヤでした。
思春期以降になると、
純粋、素朴、真面目、清楚なイメージを嫌い、
ちょっとミステリアスだったり、不良っぽい悪いイメージに憧れました。
だからますます〝白いイメージだね〟と言われることがイヤでした。
そして決して〝紫のイメージだね〟などとは言われなかったのです。
「白=純粋・清楚」などの言葉から発展して
正直、真面目、面白くない、正統派…などのイメージまで
結びつけて捉えてしまったようです。
大人になっても「あなたは真面目すぎて面白くない。」と
親から言われ続けていたので、克服すべく努力はしたものの、
本質というのは変わるものではありません。
ある時から開き直って〝正直、真面目のどこが悪い!〟と
そういう自分を受け入れることにしました。
そんな若い頃があった私ですが、
こうしておむつや肌着が並んで干してあるのを見ていると、
自分も白を身に纏いたくなりました。
その頃は中身の汚さを白で包み隠したかったのかもしれません。
むしろ柄物や色物を着ているのが違和感さえ感じるくらいに。
その後再び他の色も着るようになりましたが、
やはり白を身に纏うと心地よく清らかな気持ちになります。
今は〝包み隠す〟というよりは、
〝本当の私はこうありたい〟という願いからそう思うのかもしれません。
キリスト教徒でないとなじみがないと思いますが、
教会では白、赤、紫、緑、黒などの祭色が使われ、
それぞれに意味があり、教会暦や司祭の祭服に用いられています。
「白」は神の栄光、喜び、信仰を表し、復活節、降誕節などに用いられます。
そんなこともあってか、
今ではいつも白のイメージでありたいと願う私です。