yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

瞑想その2 ヴィパッサナー瞑想

ラビリンスメディテーションの次に取り組んだのは

キリスト教ヴィパッサナー瞑想

これはラビリンスとは別のカトリック修道院で初心者向けの一日コース。

1泊2日、2泊3日、3泊4日、8日間と宿泊黙想会が用意されていたのだが

この当時はpikarinをおいての参加は難しかった。

 

またもや、キリスト教に関係するのだが

キリスト者になってからというもの

YOGAの瞑想などにある真言を唱えたり…というのに

違和感を感じるようになってしまったのだ。

もともと瞑想はYOGAから発生しているので

ヴィパッサナー瞑想もインドの仏教から伝わってきた。

近年マインドフルネス瞑想として世界中で流行っていたのがこれである。

 

わざわざキリスト教的というのは

キリスト教の教えの中心であるアガぺ、

「無償の愛」「無条件の愛」を心に育む助けとなると

指導して下さる司祭様が取り入れたからである。

 

マインドフルネス瞑想は

今ここを、価値判断を入れずあるがままに気づくこと〟である。

 

痛みやかゆみなどの「感覚」

怒り、イライラなどの「感情」

決めつけ、思い込みなどの「思考」

普段の私たちはこれらと一つになってしまっている。

ヴィパッサナー瞑想によって

これらと心の距離を取って、意識を対象に向け

客観的に自分を見つめ「気づくこと」が大切である。

 

「気付く」訓練をしていくと

エゴにとらわれず

より深い心の自由

そして心の平和を

生きることができるようになるのである。

 

初心者コースの最初は

座禅またはあぐらで座り

手や足、皮膚など身体を通して感覚を味わうところから。

専用の座布団も用意されているし

脚を組むのが難しい方は椅子に座ってでもよい。

背骨を意識して座骨からスッと伸びるように。

 

座るのに慣れてきたら

「呼吸」に意識を向ける。

ヴィパッサナーに限らず瞑想のほとんどは呼吸に意識を向ける。

慣れないうちはどうしても心と頭があちこちさまよってしまう。

〝今ここ〟につなぎとめてくれるのが呼吸。

 

呼吸は生きるのに不可欠であり

生まれてから死ぬまで休むこともない。

善人であろうと悪人であろうとその営みを続ける。

人が自分に絶望し自ら命を絶とうとしても、

呼吸はその人に絶望しない。

呼吸は感謝を求めない。

呼吸は正常な時ほど気づかれないまま。

 

キリスト教ヴィパッサナー瞑想では

このような「呼吸」はアガぺを表すものととらえる。

呼吸だけでなく、身体のさまざまな器官、感覚も然り。

無償・無条件の愛にはエゴはなく

その愛は自己主張せず自らを隠し

見返りや条件をいっさい付けない。

聖書に「神はご自分にかたどって人を創造された」とあるように

私たちの体の中にはアガペの神につながるその似姿がある、ということになる。

 

あまり宗教的に考えすぎると

一般の方には馴染めなくなってしまうのでこのへんで。

キリスト教的考え方はともかく

マインドフルネスの中心である

「今ここを

 あるがままに

 価値判断なしに」

は変わらない。

 

そのほか「歩く瞑想」といって

足の裏の感覚、体の中心、バランスなどを感じる瞑想もあった。

一定の条件の下、ある時間、同じテンポで歩く。

おなじ「歩く」でもラビリンスメディテーションとは全く違う。

 

「食べる瞑想」もあり、これについては次回書くことにする。

 

参加者は20~70代と幅広く、予想外に大人数だった。

キリスト教信徒でない方もいて、男性もおじさまが多かった。

帰りに、ある参加者の方と駅までの道を共にした。

YOGAの講師をしているとのこと。

キリスト教も仏教もみな同じですね。」と言っていた。

 

修道院がこんな風に開かれた場所になっていることが

嬉しく思えた。