yasumin日記~霊的成長への道~

発達障害の息子の子育て こころの成長・気づき・発見 ちょっぴりスピリチュアル

瞑想その6 内観する瞑想

この5か月取り組んでいるのは

ナビゲーションに従い内観する瞑想。

潜在意識にアプローチする仕事を始めたことから

瞑想も内観することに重きを置いてみた。

1時間という長い時間なので

継続するにはそれなりの意志の力も必要である。

 

まず、背筋を伸ばして座り、リラックスする。

最初の導入部分は身体の各部位に意識を向け、集中。

次第に意識の範囲を体の外側へ拡大していく。

 

次に、今まで自分がどのような存在だったか

今どのような意識状態にあるのかなど

人生を俯瞰して気づいていく。

この気づきから

自分を動かしている感情を知ることができる。

そしてこの感情から起こる

特定の思考と行動パターンを見つけることができる。

ほとんどの無意識な行動は

人格に刷り込まれたマイナス感情から発生し

その感情を抱き続ける限り、

それを満たす行動をとらざるを得ない現実が引き寄せられ

持続し続ける結果となる。

 

私にとっては耳の痛い話だが

すべて起こっている現象は自分の中にあるものの現れである。

潜在意識的にみると

病気、人間関係、お金、仕事、恋愛結婚、その他すべての悩みは

感情から起こってくる。

 

恐れ、不安、罪悪感、虚偽、偏見、ひがみ、不幸、

不信感、苛立ち、怒り、恨み、悲しみ、寂しさ、貪欲、

頑固、短気、消極性、否定的、懸念、無気力、憂鬱、

抑圧、自己嫌悪、依存、嫉妬心、トラウマ、プレッシャー…。

挙げればきりがないほどのマイナス感情。

誰でも認めたくない、見たくないから蓋をしてしまった感情が

心の奥底に隠れている。

普段は意識しないでいるから自分でも気づかない。

 

自分を責めたり咎めたりする必要はなく

また無理に直す必要もなく

その感情がある自分に気づき、受け入れることから始める。

そしてその感情を手放す。

すべてを大いなる存在(私にとっては神)に委ねること。

 

古い自分を捨て、新しい自分へと日々変化する。

そして新たな自分は新たなものを創造する。

 

考えてみれば

キリスト教聖餐式(おもに主日の礼拝)と同じことをしている。

自分の罪を思い起こしー(気づき)

懺悔し、すべてを神の前に捧げるー(手放し、解放、委ねる)

そしてパンとぶどう酒の聖餐にあずかることで

新たな命を与えられ、創造へと向かう。

 

聖餐式は本来の意味を意識して

礼拝に臨むことが大切なのだが、

つい儀式的なものにとらわれたり

慣習として参加していたりすると

大切なことに気づけないまま過ぎてしまう。

一週間持たずに日々いろいろな出来事が起こり

心に聴くこともせずにいると

感情も振り回されて自分がブレてしまう。

その上今はコロナで礼拝自粛中。

 

内観する瞑想を始めて

自分の感情、起こっている出来事を客観的に、

しかも具体的に見ることができるようになってきた。

おかげで自分のブレ幅が少なくなった。

(これはマインドフルネス瞑想にも共通する。)

 

pikarinと共に生活すると

感情が揺さぶられる毎日なのは変わりない。

例えば、「怒り」が生じても

怒っている自分を見つめ

何に対して苛立ちを感じているのか

その奥に潜む感情が何なのか

最近はそんな風に捉えている。

その奥底にあるものが分かって手放すことができると

「怒り」は以前より感じなくなる。

「ただ我慢する」「無理に相手を受け入れる」

というのとは違う。

これをしてしまうと

「怒り」の感情に蓋をしてしまうことになるから

また同じパターンの繰り返しが起こる。

 

まだまだいろいろな出来事をフィルターに

たくさんのマイナス感情は浮上してくる。

見たくないものを見るのは勇気がいることだが

それに気づき受け入れることは

自分の弱さを受け入れること。

悪いところも認め、無理に直すのではなく

ありのままの自分を愛することにつながる。

 

神様はすべての人を一人ひとり愛して下さる。

よいところも悪いところもすべて。

私たちも神様に倣って、まずは自分を愛そう!

自分を愛せないと隣人を愛すことはできないから。

 

 

 

 

 

瞑想その5 シッダヨガ

TM瞑想の体験直後に

ある方から瞑想のお誘いを受けた。

受けるべきか迷っていたが

師からのお誘いでもあり、

シンクロニシティを感じて参加してみることにした。

シッダヨガという流派らしい。

初めて知った。

 

今世の中に浸透しているYOGAは

精神性というよりは

もっぱら身体的エクササイズになっているように思うが

もともとYOGAは

古代インド発祥の伝統的な宗教的行法であり、

瞑想を中心とする。

仏教、ヒンドゥー教からインド各地の諸宗教に展開され

静的、動的な流れをくむ流派などそれぞれに発展し体系化されてきた。

どれもインド哲学やヨガの聖典など

サンスクリット語のカタカナが並ぶし

各流派ごとに少しずつ重きを置くところが異なるし

グルと言われる師から伝授されるので

聖人と呼ばれるたくさんの人の名が連ねられる。

 

このシッダヨガの瞑想は1日コースだった。

部屋に入るとお香の香りが立ち込め

正面にはグルの写真が額に入れて飾られ

花やインド風のしつらえがなされていた。

まずはシッダヨガの成り立ち、グルについてなど

視聴したような記憶がある。

その後は最初は短い時間から、次第に長い時間

脚を組んで、瞑想&お話の時間。

マントラを唱える瞑想があったり

キールタン(インド版讃美歌のようなもの)を歌ったり。

 

ひと昔の私なら

その雰囲気に酔いしれていたことだろう。

もとはインド好きの私だから

興味がないわけではないが

今の私には「神」を感じるにはキリスト教が必要だし

瞑想はニュートラルな自然な感覚でとらえたい。

またYOGAは身体のメンテナンス、

体の感覚からくる「気づき」として必要に感じている。

いろいろと彷徨って

今の自分に必要なものを感じ取っている。

次の段階へ成長したら

また見えてくるもの、捉え方も変わり

必要なものが変化するかもしれない。

 

その日一日は新たな出会いもあり楽しかったし、興味もあったが

書籍を2冊購入し読んでみるにとどまった。

今は哲学的にあまり難しく考えたくないし

インド思想に傾倒しているわけでもない。

そんなことから以降は特に参加していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞑想その4 TM瞑想

2年前にトライしたのがTM瞑想。

Transcendental Meditation 略してTM

超越瞑想という。

実は30年前から気になっていた瞑想法である。

 

超越瞑想のルーツは

インド発祥の「ヴェーダの伝統」に由来する。

古来から守られてきたこの伝統的瞑想法を

50年ほど前に体系的に復活させ

世界に紹介したのがマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーである。

 

なぜ超越瞑想を知ったのかはよく覚えていない。

おそらくその頃YOGAについて調べていたからだろう。

TMを実践している著名人に

ポール・マッカートニーリンゴ・スター

ジョージ・ルーカスデヴィッド・リンチクリント・イーストウッドなど

錚々たるメンバーが名を連ねていたことも

興味を持った理由であろう。

 

やり方は極めてシンプル。

無理に集中する必要はないし、心をコントロールする必要もない。

姿勢や身体の動きなどの制限もない。

だから脚を組んで背骨を無理に真っすぐにする必要もなく

椅子やソファーに座ってでもできる。

TM教師から指導された「マントラ」を心の中で用いる。

一回の瞑想時間は20分。

朝夕1日2回行う。

 

他の瞑想と違って

多くの努力を必要とせず、

自然に深い安らぎに導かれる。

子どもでもできる。

そして宗教的な感じがあまりしない。

その効果は科学的に実証されていることもあり

ストレスマネジメント、能力開発、健康管理のプログラムとして、

世界中の学校、企業、医療機関、軍隊、刑務所などで

採用されている。

 

最初は私一人で学ぶ予定だったが

精神的な安定が何にもまして最優先すべき我が家の状況から、

高次機能障害の夫と発達障害のpikarinにも

効果があるのでは…と思った次第である。

おまけに家族が同時に受講する場合に限り

「家族割引」が適用されることが分かった。

この機会を逃しては…と思った私は

ダメもとで二人に聞いてみたのである。

当時は夫も無職、pikarinは不登校だったので

時間は十分にあった。

基本コースは一日2時間程度×5日間。

今思うと、

気まぐれpikarinがよく付き合ってくれたものである。

2泊3日の旅行に行ってさえ、トラブル勃発の絶えない家族だが

5日間の瞑想指導に3人で通ったのである。

ちょっとストイックで風変りな私に

二人とも付き合ってくれて本当に感謝。

 

TM教師から指導を受けてから

今度は毎日3人そろって朝夕の瞑想。

いつもは勝手者で他者に合わせることが苦手な二人だが

私ではなく、夫の掛け声で3人そろっての瞑想が始まる。

 

どのくらい続いたであろうか。

思い出すと不思議な感じである。

言葉には出さないが

それぞれに何らかの効果を感じたのであろう。

静寂の中にわずかでも落ち着きを見い出せたようだ。

 

ところが今現在はさっぱり…。

 

引き続き精神的な安定は我が家のテーマであるが

絶えず静寂とはかけ離れたインターネット配信の情報の渦中にある。

一日のうちの少しの時間、

静寂の中に身を置くことで

精神的な安定、心の落ち着きが得られるのに…。

 

今は私一人でほぼ毎日行っている。

何しろ自然だから続けやすい。

効果を期待すると力が入ってしまうので

何も考えない。

安らいだ状態に入るのが心地いい。

 

3人そろってでなくとも

いつかそれぞれが瞑想を継続できる日が来ることを願っている。

一人一人の心の平安は

世界の平和へとつながる。

私はそう思う。

 

 

 

 

 

瞑想その3 サダナ黙想

ラビリンスメディテーションヴィパッサナー瞑想に続いて

体験したのは「サダナ黙想」。

実は、キリスト教系の瞑想法を体験したいと思い

一番最初に見つけたのが

「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」という本だった。

 

遡れば、ローマカトリックの流れをくむ西方教会に対し

ギリシャ正教に端を発する東方正教会に興味を持ったのが

そもそもの始まりである。

ロシアの「無名の巡礼者の手記」から

〝イエズスの祈り〟について知ることとなった。

 

この〝イエスの御名の祈り〟は

「主イエス・キリスト、神の子よ、われを憐れみたまえ。」

という短い祈りである。

4世紀のエジプトの修道士の祈りにもルーツがあると言われ

また、この祈りを繰り返し唱える際に

ある種の呼吸法、体位法などの身体技法が行われていたようで、

この事を知った時に

マントラ(真言)を唱えたり、呼吸法、姿勢など

インド発祥のYOGAの瞑想法に共通点を見出したのだった。

 

そんなことから、

キリスト教の修道士に伝わる瞑想法があるはずだと確信していた。

 

さて、「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」を手にしたものの

字は細かいし

著者がイエズス会の司祭様だから当然だが

エス様のことを「イエズス」と表記されるのも私には馴染みがない。

瞑想は体験して感じ、気づくことに意味があるので

ただ読んでいてもイメージが湧かない。

読みながら実践するというのは非常に難しい。

そんなことから、途中まで読んでそのままになってしまった。

 

いくつかの瞑想を体験した後

ふと「サダナ黙想」を思い出し、体験してみることにしたのだった。

 

まずは入門A(1日)のプログラムから。

こちらも上級者になれば宿泊のコースなどもある。

最初はヴィパッサナーと同じように

沈黙、体の知覚、呼吸などの基本からの導入となる。

 

その後イメージ、幻想を用いた瞑想へと続く。

この体験は非常に面白かった。

空想物語やイメージを描くのが好きな人には楽しいと思う。

自分の体験をシェアリングしたりすることもあり

他の参加者との感じ方の交流も自然とでき

個でありながら、温かい空間が感じられた。

いわゆる瞑想のイメージとはちょっと違ったアプローチがあり

気づき方も新鮮な感じがした。

一人で行うのもよいが、

皆で行うことの素晴らしさを感じることができたように思う。

 

過去記事に一例を記したので参考まで。

 

その後はすっかりご無沙汰だし

現在はコロナ渦でオンラインで行っているようである。

興味のある方はぜひ!

 

 

 

瞑想その2 ヴィパッサナー瞑想~「食べる瞑想」

前回ご紹介したヴィパッサナー瞑想のプログラムの中に

「食べる瞑想」というのがあった。

昼食の時間がこれに充てられる。

修道院の食事ということで質素なものをイメージしていたが

黙想会参加者用に用意されているのか

なんとも豪華で身体によさそうなものばかりだった。

 

キリスト教では「最後の晩餐」にもあるように

〝食事を共にする〟ことを大切にしている。

私が所属する教会でも

〝愛餐会〟と呼ばれる日曜日の礼拝後の食事会は

ご婦人方の手料理が素晴らしい。

新型コロナ蔓延以来行われていないが。

 

さて、この「食べる瞑想」。

食事中の私語は禁止。

一口食べては箸を置き

目を閉じて、口の中で溶けるまでよく噛んでから飲み込む。

ひたすらこれの繰り返し。

 

食材の持つそれぞれの味、固さ、食感を感じる。

口の動き、歯の感触、舌触り。

唾液と混じり合う感じ。

普段何も感じないところに自然と意識が向く。

一口にこんなに時間をかけて食べたことがあるだろうか。

食材はもちろん

作ってくれた方、準備を整えて下さった方、食事を共にした参加者の方々に

感謝の念が湧いてくる。

また取り込んだ食材を

エネルギーとして変換してくれる自分の身体の各器官にも

感謝である。

全身に行き渡っていく感じがイメージされる。

 

食べることを通して多くのことを感じた貴重な体験。

たまには日常生活に取り入れたらよいのだろうが

よほどの決意がないと実行できない。

当然のことながら食べるスピードが格段に遅くなるから

時間と心に余裕がないとできない。

少量でお腹がいっぱいになるから

たくさんの量を食べないと満足できない人には向かない。

食べることが楽しみの人には向かない。

 

ある日の昼食時、

早食いpikarinに「食べる瞑想」の事を話してみた。

何を思ったかいきなり目を閉じて

「食べる瞑想」をやり始めた。

彼はいつも〝思ったがその時〟で衝動的に始める。

こちらが言い始めたことなので

一緒にやることにした。

いつもは5分の食事に30分以上かけた。

こういうところが不思議。

興味のない事や強制されると無視するpikarinだが

たまに予想外にヒットしたりする。

しかも面倒なことに集中できたり、

時間をかけることもできたりする。

瞑想を終えて感想を聞くと

「からだにしみわたるね。」と一言。

 

一度体験したもののその後はやる気もなく

相変わらずの早食い。

ひどいときは

短期記憶が弱いから

「ボク、夕ご飯食べたっけ?」とか言うことも。

せっかく愛情込めて作っているのだし

健康のこともあるので

もう少しゆっくり味わってほしいのだが…。

 

 

 

 

瞑想その2 ヴィパッサナー瞑想

ラビリンスメディテーションの次に取り組んだのは

キリスト教ヴィパッサナー瞑想

これはラビリンスとは別のカトリック修道院で初心者向けの一日コース。

1泊2日、2泊3日、3泊4日、8日間と宿泊黙想会が用意されていたのだが

この当時はpikarinをおいての参加は難しかった。

 

またもや、キリスト教に関係するのだが

キリスト者になってからというもの

YOGAの瞑想などにある真言を唱えたり…というのに

違和感を感じるようになってしまったのだ。

もともと瞑想はYOGAから発生しているので

ヴィパッサナー瞑想もインドの仏教から伝わってきた。

近年マインドフルネス瞑想として世界中で流行っていたのがこれである。

 

わざわざキリスト教的というのは

キリスト教の教えの中心であるアガぺ、

「無償の愛」「無条件の愛」を心に育む助けとなると

指導して下さる司祭様が取り入れたからである。

 

マインドフルネス瞑想は

今ここを、価値判断を入れずあるがままに気づくこと〟である。

 

痛みやかゆみなどの「感覚」

怒り、イライラなどの「感情」

決めつけ、思い込みなどの「思考」

普段の私たちはこれらと一つになってしまっている。

ヴィパッサナー瞑想によって

これらと心の距離を取って、意識を対象に向け

客観的に自分を見つめ「気づくこと」が大切である。

 

「気付く」訓練をしていくと

エゴにとらわれず

より深い心の自由

そして心の平和を

生きることができるようになるのである。

 

初心者コースの最初は

座禅またはあぐらで座り

手や足、皮膚など身体を通して感覚を味わうところから。

専用の座布団も用意されているし

脚を組むのが難しい方は椅子に座ってでもよい。

背骨を意識して座骨からスッと伸びるように。

 

座るのに慣れてきたら

「呼吸」に意識を向ける。

ヴィパッサナーに限らず瞑想のほとんどは呼吸に意識を向ける。

慣れないうちはどうしても心と頭があちこちさまよってしまう。

〝今ここ〟につなぎとめてくれるのが呼吸。

 

呼吸は生きるのに不可欠であり

生まれてから死ぬまで休むこともない。

善人であろうと悪人であろうとその営みを続ける。

人が自分に絶望し自ら命を絶とうとしても、

呼吸はその人に絶望しない。

呼吸は感謝を求めない。

呼吸は正常な時ほど気づかれないまま。

 

キリスト教ヴィパッサナー瞑想では

このような「呼吸」はアガぺを表すものととらえる。

呼吸だけでなく、身体のさまざまな器官、感覚も然り。

無償・無条件の愛にはエゴはなく

その愛は自己主張せず自らを隠し

見返りや条件をいっさい付けない。

聖書に「神はご自分にかたどって人を創造された」とあるように

私たちの体の中にはアガペの神につながるその似姿がある、ということになる。

 

あまり宗教的に考えすぎると

一般の方には馴染めなくなってしまうのでこのへんで。

キリスト教的考え方はともかく

マインドフルネスの中心である

「今ここを

 あるがままに

 価値判断なしに」

は変わらない。

 

そのほか「歩く瞑想」といって

足の裏の感覚、体の中心、バランスなどを感じる瞑想もあった。

一定の条件の下、ある時間、同じテンポで歩く。

おなじ「歩く」でもラビリンスメディテーションとは全く違う。

 

「食べる瞑想」もあり、これについては次回書くことにする。

 

参加者は20~70代と幅広く、予想外に大人数だった。

キリスト教信徒でない方もいて、男性もおじさまが多かった。

帰りに、ある参加者の方と駅までの道を共にした。

YOGAの講師をしているとのこと。

キリスト教も仏教もみな同じですね。」と言っていた。

 

修道院がこんな風に開かれた場所になっていることが

嬉しく思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

瞑想その1 ラビリンスメディテーション

f:id:hoshinopikarin:20210905195419j:plain3年ほど前、

ラビリンスメディテーションをやった。

一般的には修道院という所は馴染みがないかもしれないが

私にとっては

心が落ち着き、自分に帰ることができる。

時間も半日だったので

初めて瞑想を行うには入りやすかった。

 

フランスのシャルトル大聖堂など

聖堂内に敷設されているものもあるが

私が体験したのは

修道院の奥庭の渦巻きの小道。

周りを木々に囲まれ

小鳥のさえずりも聞こえ

静かな空間。

 

まず最初に参加者が集められ

修女様からラビリンスについての説明を聞き

本日のメディテーションの「テーマ」が与えられる。

その後一人ずつ少しの時間差で外に出て

円形の渦巻きの外周から中心へ、

中心から外周へ向かって歩く。

沈黙のうちに

ゆっくりとそれぞれ自分のペースで

途中で他者とすれ違ったり、追い越すこともあったり。

何週歩くという決まりもなく

自分で十分と思うまで歩く。

 

教えられたわけでもないのに

外周から中心に歩いていると

これまでの人生について振り返っている自分に気づく。

いろんな感情が湧き上がってくる。

歩いているだけなのに、涙が出てきたりもする。

一歩一歩今を歩んでいることを感じる。

 

中心部分にはスペースがあって

何故か少しの時間そこにとどまっていたくなる。

心が静かになっているのを感じる。

ずっとそこにいたい気もする。

新たに外周に踏み出すには勇気がいる気もした。

 

十分かなと思って、また来た道を戻る。

同じ道ではあるが

感じ方が全く違う。

足取りがしっかり感じられた。

周りを見渡す余裕もある。

空間を感じることもできた。

 

終わった後には

参加者が集い、感じたことの分かち合いをする。

その日に出会った初めての人たちなのに

すんなりそこに溶け込める。

共に同じ道を歩き、同じ空間にいたからだろうか。

歩いている時は沈黙だったのに。

もちろん参加は自由。

分かち合いをせずに帰っても。

 

渦巻きという形状は自然界にもたくさん存在する。

死と再生を意味するようでもある。

古代から世界各地で文化の中にも普遍的にみられる形。

この形のイメージも心理的に作用するのだと思う。

(大学受験のデザインの小論文試験で、渦巻きの形状の写真が3点あり

これに共通するものについて延べよ、というのを思い出した。)

 

神を信じる者であれば

神と共に歩む道は

より癒しが与えられ、強められるが

キリスト教信徒に限らず

すべての人に

新たな体験と気づきが与えられるように思う。